「二、三人」というフレームワーク
二千年に「二、三人の神学」(按手礼論文)を書いて、19年を経た。「二、三人の神学」は、「多」と「一」の間を探し求める旅だ。別の言い方をすれば、「社会」と「個」の間を探し求める旅であり、「共同体」と「個」の間を探し求める旅でもある。この間にあるのが「二、三人」なのだが、私が、「二、三人の神学」が追求するのは、何も「二、三人」の存在論ではなく、「二、三人」間の関係論だ。「二、三人」という関係性は、三位一体間の関係性も「二、三人」なので、本質的な気づきが与えられるのではないかと期待してきた。もう一つは、我々福音派・敬虔主義がよく使用してきた、縦の二者関係と横の二者関係からも十分二、三人をイメージできる。つまり私と神との縦の関係と隣人との横の関係である。その二つの関係の関連性を「二、三人の神学」は私に教えてくれるかもしれない。これからも、「二、三人」というフレームワークで神学したいのである。
人格主義・人格関係主義の系譜
人格主義・人格関係主義の系譜
人格主義→人格関係主義(対話主義)→「二、三人の神学」
4世紀 カパドキアの三教父(四世紀後半)→東方教会に継承される
12世紀 リカルドゥス(12世紀・スコットランド)→
15世紀 ジョン・カルヴァン(1509-1564)→
18世紀 ゲオルク・ハーマン(1730-1788)→
20世紀 カール・バルト(1886-1968)→
1927年 マルティン・ブーバー(1878-1965)「我と汝」
エマニュエル・ムーニエ(1905-1950)
カール・ブルンナー(1889-1966)(ブーバーに注目)
ジョン・マクマリー(1891-1976)(スコットランドの哲学者)
(ブレザレン→クウェーカー)
エドワード・ファーレー(1929-)
トニー・ブレア(1953-)(政治家・マクマリーに注目)
1985年 J・ジジウーラス(1931-2003) (ギリシャ人哲学者・マクマリーに注目)
1991年 ガントン(Gunton C.E)(1941-)(マクマリーに注目)
The Promise of Trinitarian Theology, Edinburgh 1991
ガントンは、スコットランドの哲学者Jマクマレーの「関係における人格」という新しい人格概念に着目する。「自己とはただ他者との動的な関係の中にのみ実在する。自己とは他者との関係によって構成されるものである。それは関係の中に存在を持っている。」そこでは、他者の実在に自己が溶解してしまうのではなく、あくまで相互の関係の中で、それとの均衡を通して初めて自己は責任ある人格的主体へと成長する。もし多数の他者の中に自己が溶解してしまうとすれば、それは集団主義になる。そして実は集団主義とは、自分のことしか考えない、人格の未熟な個人主義が無自覚のうちに陥りかねない社会現象なのである。
2001年 カーク・パトリック(Kirkpatrick.F.G)(マクマリーに注目)
The Ethics of Community,Oxford T・F・トーランス
2006年 ジームズ・フーストン(1922-)「喜びの旅路」
「日本語にperson(人格的な交わり、関係の中で生きる人間)にあたる言葉がないということは、キリスト者に深刻な問題を突きつけます。なぜなら、恐れて、遠く離れることによってではなく、愛情を表すことによって、私たちは神を礼拝し、神を知るからです。」(ジェームズ・フーストン)
2009年 稲垣良典(1928-)「人格《ペルソナ》の哲学」
2011年 大木英夫(1928-)「人格と人権」キリスト教弁証学としての人間学
2018年 スタンレー・ハワワース(1940-)「暴力の世界で柔和に生きる」
私は、結局、ブーバーとマクマリーから限りない宝を頂くこととなったが、もう一方で、三位一体という枠組みによって、それらの宝を制限する道を選んだ。私の考える三位一体とは、1は1、2は2、3は3、4以上は4以上、という、それだけである。また個があり、二者関係があり、三者関係であるという、それだけである。
補完神学の提案 参考文献
補完神学の提案・結論
「二、三人の神学」は、「公同主義」と「個人主義」ともう一つの「二、三人主義」を提示することで、神学に対する自由度が増し、日本宣教への対応度も増し、宣教の試み・冒険に対する寛容さも増すことではないかという、日本の福音派向けの補完神学の提案である。なぜなら、我々は「公同主義」の視点だけに吸い込まれず、また「個人主義」の視点だけに吸い込まれずにいたいからである。あえていうならば、「二、三人主義」の視点だけにも吸い込まれずにいたいというのも真実である。
我々のキリスト教的思考は、「あれかこれか」の思考が前提にある。特に真理の中心に近づけば近づくほど、「あれかこれか」の絶対的信仰が必須となってくる。しかしすべて内容が中心にあるのではない。周辺的な内容がいっぱいある。「あれかこれか」の領域に入り過ぎた場合、どうしても相対化させる位置にあるものは相対化すべきであろう。
ある内容は、周辺の位置に置き、「あれもこれも」の思考で対応すべきであろう。ただ「あれもこれも」の思考には、多元思考が忍び寄る。そうならないために「あれもこれもそれも」の思考が必要なのである。しかしこの結論を記す段階で、有賀鐵太郎氏の「論理の中断」を読みながら、所詮、今回の論文の思考は、有賀鐵太郎の言うオントロギアの範疇にあったのだと無力感を感じる次第である。と言っても、安易に、非理性、反知性の世界に、逃げ込むわけにはいかない。21世紀日本の武庫川に生きる私たちは、今、個や二者関係の危うさをひしひしと感じている。また一方で過去からの公同主義の問題点も感じてきたものとして、「二、三人の神学」的思考に生きたい、広げたいと思うものである
補完神学の提案53
最後に、「個」と「二、三人」と「共同体」の三つの枠組みはどのように補完し合うのであろうか。2000年の按手礼論文では、個のデボーションと共同体の説教と二、三人の分かち合いというふうに提示し、この三つの相互作用の重要性について述べた。例えば、「個」のデボーションだけで進むと独りよがり信仰になり、「共同体」の礼拝説教だけに進むと受け身信仰になり、「二、三人」だけに進むとそこは一般のサロンと変わらなくなる。そこから牧会伝道のバランスを実践していくような実践神学的な勧めで終わった。今に至って、私は三つのうちの一つを消去するならば、どうなるか、に関心がある。
補完神学の提案52
「神との人格関係主義」について述べる時、「神秘主義」と「対話主義」の境界線を検討せねばならない。明確な境界線を二つの間に引くのは困難であろう。いや引いてはならないだろう。パウロの場合は、この「対話」する関係こそが、「エンクリスト」なんだと客観的に神学できるようになったのは後のことであろうと思われる。「これがエンクリストなんだ」と確信に至ったのはどの時点だったのだろう。彼は、我々に「エンクリスト」という神秘現象を求めよと言ってはいない。対話的関係に入れられた現実を、信仰によってそのように表現しているのであろう。ただ注意せねばならないのは、関係表現というものは言語化した途端に安価なものに成り下がるのである。むしろ、お互いのなかだけで主観的で語り続けるほうが正しい。三位一体の関係性を我々が研究対象とするとき、「存在論」的解釈しようが、「関係論」的に解釈しようが、どうしても、客観的対象に過ぎない三位一体になってしまうのである。そして、三位一体の神に、主観的に関わろうとするならば、再び「神秘主義」と「対話主義」の狭間で迷わねばならないのである。
補完神学の提案51
私は確かに「人格主義」哲学者たちの影響を受けてきた。しかし私の考える「人格関係主義」は「人格主義」という呼び名よりも、「人格関係主義」とあえて区別して呼びたい類のものである。「人格関係主義」とあえて言う理由は、三位一体における位格間の人格関係性に注目するがゆえ、である。