補完神学の提案49

49、であるから、美しさ(芸術性)と人格関係性は必ずしも一体ではない。美学を極めることと人格関係性を極めることは一つではない。しかし、二、三人の関係性から生じる美学というものも当然あるに違いない。であるから、非人格的な四人以上の人数での美学と二、三人間の美学の両方を分けて考えることは賢明なことであろう。「二、三人の神学」は、非人格関係性のなかにある美を否定はしない。つまり守備範囲でないということである。我々は、自然に、礼拝の会衆のなかでの二、三人の関係性にあこがれ、また同時に、全体に響きあう賛美をあこがれているのである。天使の賛美は、非人格関係的なメガチャーチ的なもの、全体教会的なもの、公同的なものに近いように思う。

補完神学の提案48

「二、三人の神学」は、確かに宣教的であるが、公同礼拝的ではない。私は礼拝音楽の豊かさというものは、体制教会の公同主義から生じたものであることを疑わない。「二、三人の神学」の外に天使の声があることも疑わない。新約における音楽芸術はクリスマスの天使の声から出発したものであるがゆえに、人格関係的なものに近づくには距離がありすぎる。クリスマスの美しい天使の歌声は私にとって人格関係的に響いてこない。

補完神学の提案47

さて、また私は一方で、教会音楽に関心を持つ牧師でもある。私の「二、三人の神学」はラルシュには近づいたが、私が夢見る教会音楽からは離れてしまいそうである。私の夢見る教会音楽はいつも大きなものと結びついてしまう。つまり非人格的な多人数と結びついてしまうのである。たとえば、四人以上で美しい和声となることからしてそうである。また人数が多いと生じる倍音の魅力は、どう考えても「二、三人の神学」的ではない。多くの人数の調和のためのコントロールには、非人格的なリード、テクニックがどうしても必要になってくる。教会においては美しい音楽はいつも、大教会をイメージするものである。また指導者、指揮者の強いコントロールもイメージしてしまうのである。「二、三人の神学」を追求したい私が、もう一方で礼拝音楽の豊かさを追求したい私であることはなんと悩ましいことだろう。礼拝音楽は「二、三人の神学」とは全く違う領域に属することを認めざるを得ない。4以上のなかにある、音楽の美しさは、非人格関係的領域に属するものなのだろうか。天使の賛美も非人格関係的領域に属するものなのだろうか。

補完神学の提案46

2018年に日本語版が発行された、スタンレーハワワースと、ジョンバニエの「暴力の世界で柔和に生きる」は私の「二、三人の神学」を支援してくれそうに思う。確かにラルシュに注目したハワワースに通ずるものがある。私は霊性神学から見てきたジョンバリエと、メソジストにも関わらずメノナイトへの親和性のあるハワワースの二つが通じ合うとは思ってもみなかった。彼は、この世を所詮世俗国家のもとに暴力で秩序だてられたものと位置付けるが、そのなかで私たちは柔和の関係性で生きることを選ぶことができるというのである。それがイエスさまが歩まれた方法だという理解するのである。ハワワースは、ラルシュが、真の平和運動だと理解する。

補完神学の提案45

私は確かに、分離主義的に、「二、三人の人格関係性」と、それ以外のものを分けようと考えている。福音主義が昔からよくしてきた手法である。イエスさまとの関係性以外のものをとりあえずよせつけないという手法である。同じ手法で、私は、イエスさまとの二者関係にもう一者入れることで広がる世界を「二、三人の神学」は表現したい。だからといって、「二、三人の人格関係性」以外のものを非人格関係的なものとして排除しない。むしろ、我々の知性を超えたところに、私たちには手に負えない神のみ心があるぐらいに考えるべきだ。そこは「二、三人の神学」領域ではないと割り切るのである。少なからず私の領域ではない、と考えていきたいのである。カルヴァン派の全領域を視野におく神学を尊重し、その領域はカルヴァン派に助けて頂くしかない。

補完神学の提案44

東京時代の恩師に、先日、私の「二、三人の神学」をぶつけたが、残念ながら私の言葉足らずで届かなかった。しかしその恩師は「自分の神学を温めておきなさい」とだけ言われて、私を励ましてくださった。うれしいことではあるがわかってもらえなかった。わかってもらえないから生涯、自分の中だけで、この一点に拘り続けることができることを感謝しようと思う。そのすることへの励ましを師はしてくださった。