補完神学の提案・結論

「二、三人の神学」は、「公同主義」と「個人主義」ともう一つの「二、三人主義」を提示することで、神学に対する自由度が増し、日本宣教への対応度も増し、宣教の試み・冒険に対する寛容さも増すことではないかという、日本の福音派向けの補完神学の提案である。なぜなら、我々は「公同主義」の視点だけに吸い込まれず、また「個人主義」の視点だけに吸い込まれずにいたいからである。あえていうならば、「二、三人主義」の視点だけにも吸い込まれずにいたいというのも真実である。

 

 我々のキリスト教的思考は、「あれかこれか」の思考が前提にある。特に真理の中心に近づけば近づくほど、「あれかこれか」の絶対的信仰が必須となってくる。しかしすべて内容が中心にあるのではない。周辺的な内容がいっぱいある。「あれかこれか」の領域に入り過ぎた場合、どうしても相対化させる位置にあるものは相対化すべきであろう。

 

 ある内容は、周辺の位置に置き、「あれもこれも」の思考で対応すべきであろう。ただ「あれもこれも」の思考には、多元思考が忍び寄る。そうならないために「あれもこれもそれも」の思考が必要なのである。しかしこの結論を記す段階で、有賀鐵太郎氏の「論理の中断」を読みながら、所詮、今回の論文の思考は、有賀鐵太郎の言うオントロギアの範疇にあったのだと無力感を感じる次第である。と言っても、安易に、非理性、反知性の世界に、逃げ込むわけにはいかない。21世紀日本の武庫川に生きる私たちは、今、個や二者関係の危うさをひしひしと感じている。また一方で過去からの公同主義の問題点も感じてきたものとして、「二、三人の神学」的思考に生きたい、広げたいと思うものである