二・三人の神学(按手礼論文11)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第四部 シャロームの本質

1章「二・三人」の共同体

 私がここで「二・三人」という用語を用いていこうとしているのも、三位一体なるお方の内に二者関係があるということと、三者関係があるということ、の二つに集中したいからである。

 確かに、神ご自身がすべての根源であられるお方ならば、二者関係と三者関係だけが神の内にあると考えるわけにはいかない。なぜなら、神ご自身がすべての根源であられるならば、そこには「社会」という大きな単位の何らかの要素が入っていると言えるし、そこには「教会」という単位の何らかの要素が入っていると言える。しかし、私はあえて、神の内に、関係の最小単位である、二者関係と三者関係があるということだけに集中したい。それは、今まで、キリスト教会において、社会という単位、教会という単位に取り組むほどに、「二・三人」に取り組むことがなかったからである。また「個人」という単位に取り組むほどに、「二・三人」に取り組むことがなかったのである。であるから、関係の最小単位である二者関係と三者関係から地道に議論をスタートさせたいのである。つまり、まず「二・三人の共同体」が回復されることによって、教会全体、社会全体に、祝福が広がるのではないかという希望を抱きたいのである。

 なぜなら、イエスさまが、そこに希望を置かれた事実があるからである。つまりイエスさまは、マタイ18章において、12弟子たち全体の動きには失望されたものの、12弟子のなかの「二・三人」には希望を持たれた。イエスさまは、弟子たち全体が「誰が偉いか」の議論に明け暮れていたことを憂慮されていた。また12弟子のうちの一人の裏切りもご存知であった。そのような弟子共同体の危機状況のなか、主は「あなたがたのうちのふたり」と言う希望の御言葉を残されたのである。つまり、全体が一致できなくても、二人が、三人が、一致して祈るならば、その祈りに答えると言われたのである。

 主はここで、全体でもなく、個人でもなく、「二・三人」という関係の最小単位に希望を託された。であるから、私も希望の糸口として「神の内なるシャロームに二・三人の共同体がある」ということことから議論をスタートさせたい。これは神の内なるシャロームに共同体がある」ということでなく、「神の内なるシャロームに二・三人の共同体」がある、ということである。