「二、三人」というフレームワーク

二千年に「二、三人の神学」(按手礼論文)を書いて、19年を経た。「二、三人の神学」は、「多」と「一」の間を探し求める旅だ。別の言い方をすれば、「社会」と「個」の間を探し求める旅であり、「共同体」と「個」の間を探し求める旅でもある。この間にあ…

人格主義・人格関係主義の系譜

人格主義・人格関係主義の系譜 人格主義→人格関係主義(対話主義)→「二、三人の神学」 4世紀 カパドキアの三教父(四世紀後半)→東方教会に継承される 12世紀 リカルドゥス(12世紀・スコットランド)→ 15世紀 ジョン・カルヴァン(1509-1564)→ 18世紀 ゲ…

補完神学の提案 参考文献

キリスト教思想における存在論の問題 有賀鐵太郎 創文社 マルチン・ブーバー 平石善司 創文社 人格《ペルソナ》の哲学 稲垣良典 創文社 人格と人権 大木英夫 教文館 現代人はキリスト教を信じられるか ピーター・バーガー 教文館 なぜ日本にキリスト教は広ま…

補完神学の提案・結論

「二、三人の神学」は、「公同主義」と「個人主義」ともう一つの「二、三人主義」を提示することで、神学に対する自由度が増し、日本宣教への対応度も増し、宣教の試み・冒険に対する寛容さも増すことではないかという、日本の福音派向けの補完神学の提案で…

補完神学の提案53

最後に、「個」と「二、三人」と「共同体」の三つの枠組みはどのように補完し合うのであろうか。2000年の按手礼論文では、個のデボーションと共同体の説教と二、三人の分かち合いというふうに提示し、この三つの相互作用の重要性について述べた。例えば、「…

補完神学の提案52

「神との人格関係主義」について述べる時、「神秘主義」と「対話主義」の境界線を検討せねばならない。明確な境界線を二つの間に引くのは困難であろう。いや引いてはならないだろう。パウロの場合は、この「対話」する関係こそが、「エンクリスト」なんだと…

補完神学の提案51

私は確かに「人格主義」哲学者たちの影響を受けてきた。しかし私の考える「人格関係主義」は「人格主義」という呼び名よりも、「人格関係主義」とあえて区別して呼びたい類のものである。「人格関係主義」とあえて言う理由は、三位一体における位格間の人格…

補完神学の提案50

大人数から生じる神秘主義的な感覚は非人格関係的なものである。大人数のなかで神とつながろうとするときに、どうしても神秘主義的なものが生じるが、それは少人数での人格関係的な対話とは異なる。

補完神学の提案49

49、であるから、美しさ(芸術性)と人格関係性は必ずしも一体ではない。美学を極めることと人格関係性を極めることは一つではない。しかし、二、三人の関係性から生じる美学というものも当然あるに違いない。であるから、非人格的な四人以上の人数での美学…

補完神学の提案48

「二、三人の神学」は、確かに宣教的であるが、公同礼拝的ではない。私は礼拝音楽の豊かさというものは、体制教会の公同主義から生じたものであることを疑わない。「二、三人の神学」の外に天使の声があることも疑わない。新約における音楽芸術はクリスマス…

補完神学の提案47

さて、また私は一方で、教会音楽に関心を持つ牧師でもある。私の「二、三人の神学」はラルシュには近づいたが、私が夢見る教会音楽からは離れてしまいそうである。私の夢見る教会音楽はいつも大きなものと結びついてしまう。つまり非人格的な多人数と結びつ…

補完神学の提案46

2018年に日本語版が発行された、スタンレーハワワースと、ジョンバニエの「暴力の世界で柔和に生きる」は私の「二、三人の神学」を支援してくれそうに思う。確かにラルシュに注目したハワワースに通ずるものがある。私は霊性神学から見てきたジョンバリエと…

補完神学の提案45

私は確かに、分離主義的に、「二、三人の人格関係性」と、それ以外のものを分けようと考えている。福音主義が昔からよくしてきた手法である。イエスさまとの関係性以外のものをとりあえずよせつけないという手法である。同じ手法で、私は、イエスさまとの二…

補完神学の提案44

東京時代の恩師に、先日、私の「二、三人の神学」をぶつけたが、残念ながら私の言葉足らずで届かなかった。しかしその恩師は「自分の神学を温めておきなさい」とだけ言われて、私を励ましてくださった。うれしいことではあるがわかってもらえなかった。わか…

補完神学の提案43

ここから、「二、三人の神学」の実際的な面を触れていこう。「二、三人の神学」から引き出される、フォーカスせねばならない点がある。この内容は、2000年の按手礼論文に記した内容である。その内容は次のようなことである。三者間は媒介不能な領域がある。A…

補完神学の提案42

その点で、私はメノナイトの学者、フラー神学校教授のディビッド・アウグスバーガーから多くの知恵を得た。しかし彼の伝えてくださった知恵は二者関係に限定された知恵であった。二者関係間の知恵を追求することはご当然のことであり、それ以外の関係性は考…

補完神学の提案41

そのようななかで、私は、1990年代、人格関係というものが理解されやすい状況が生じていた。それが依存症研究であり、そこから生じた「人格関係障害」である。「人格関係障害」とは人格障害とは違う。誰にも起こり得る、関係的障害である。人格障害ならば、…

補完神学の提案40

私は二、三人の人格関係を包括する公同というものがあることを信じる。信じざるを得ない。なぜなら二、三人の人格関係でないものをすべて非人格だという理由で排除すべきではない。むしろ非人格関係という領域があるからこそ、人格関係が浮き彫りにされると…

補完神学の提案39

ここに私の「二、三人の神学」の特徴がある。「二、三人の神学」は「マイノリティーの神学」である。しかし「マイノリティーの神学」はマジョリティーを視野においた神学でもある。「二、三人の神学」は絶えず公同を視野に置く。カルヴァン派のアンチテーゼ…

補完神学の提案38

もう一方で「二、三人の共同体」から広がるネットワークとしての固有の共同体でどこまでネットワーク化できるかはわからないが、もう一方で確かに、「二、三人の共同体」ではなく大きな共同体の侵入を受けている。教会に100人が集まる時の礼拝形式は、「二、…

補完神学の提案37

しかし3人と4人の隙間を克服することにより、道は開かれていくと信じる。「固有の文化を持つ共同体」という概念は、オランダの卓越した改革派神学者、フォン・リューラーが述べているが、彼のアナバプティズムに対する否定的発言がアナバプティズムの私とし…

補完神学の提案36

私は、メノナイトの分離主義的な信念により、教会というものは、「固有の文化を持つ共同体」だと信じている。また、この「固有の文化を持つ共同体」が体制に至ることは決してない。いや体制に至ってはならない。私の知り得る限り、イエスさまのビジョンは体…

補完神学の提案35

ただ三と四の間の溝を認識することで共同体が拡大していくことを期待はするものの限りなく広がっていくことについては、不可能ではないかと信じているところに私のメノナイトとしての分離主義的な信念がある。

補完神学の提案34

確かに、四人以上であっても、二、三人の交わりのネットワークだと理解すれば、人格関係の量的広がりを説明することは可能である。つまりトライアングルのネットワークならばどんなに人数が増えても、二、三人に集中し、そこに人格関係があることを信じ、認…

補完神学の提案33

繰り返すが、私の考える「二、三人の神学」というのは、単純に、二は二にであり、三は三であり、それ以上は非人格的領域として考えるということである。つまり一般数学の定義とは違うところから始まる。理由は、人間的体験上、二、三人ならば人格関係は成り…

補完神学の提案32

「≠」の論理は、三位一体という枠組みがあるならば、三位一体を二、「三人の神学」的に読んでいくなかで、三位一体を適用するなかで、多元化、断片化へのブレーキがかかるのではないか。組織神学としての三位一体は多元化、断片化へのブレーキのために必要な…

補完神学の提案31

そのような流れを考えるなかで、私はこのような三位一体論を用いて、歴史的になされたきた、まずは「1」を強調し、「1」の強調の後に、「1」と「1」の間に「=」の論理を引き出すの道でよかったのであろうかと思うようになった。つまり、父=子、父=聖霊、…

補完神学の提案30

三位一体という用語の名付け親ティルトゥリアヌスは西方教会の強力な組織化の影響下で三を強調するよりも、まずは一を強調したようである。一を強調したティルトゥリアヌスが、今の西方教会の組織強調型、体制型の教会を作り上げていったと言っても過言では…

補完神学の提案29

さて、そのように三位一体を舞台にして、神学しようとするとき、位格間の人格関係性における無媒介の関係性を信じる私は、私たちが知る「イエスさまの父なる神に向けての祈り」は、異なる人格間の対話であったがゆえに、対話が可能となるのではないか。もし…

補完神学の提案28

つまり、もう三位一体なるお方から社会を見る必要はない。三位一体なるお方から共同体を見る必要はない。三位一体なるお方から個人を見る必要はない。三位一体なるお方から二、三人のそのままの人格関係だけを見れればそれでよい。三位一体から直接、まずは…