2013-01-01から1年間の記事一覧

二・三人の神学(按手礼論文14)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第四部 シャロームの本質第2章 二者関係のある共同体 「神の内なるシャローム」は、その内に「二者関係の完全な平和がある共同体」であった。つまり、「父と子の二者関係が完全平和がある共同体」であり、「子と…

二・三人の神学(按手礼論文13)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂) それでは、ここから、「二者関係のある共同体」「三者関係のある共同体」について述べよう。しかし、なぜ関係論的に三位一体を捉えた上で、それだけではなく、「二者関係」と「三者関係」を区別して論じようと…

二・三人の神学(按手礼論文12) 

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂) そこで、三位一体間の関係性について触れて考えてみよう。三位一体という用語を初めて使用したのは、ティルトゥリアヌス(AD220年以降没)であった。彼は三つの位格を強調し過ぎるあまりに、神の統一性が危険に…

二・三人の神学(按手礼論文11)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第四部 シャロームの本質1章「二・三人」の共同体 私がここで「二・三人」という用語を用いていこうとしているのも、三位一体なるお方の内に二者関係があるということと、三者関係があるということ、の二つに集…

二・三人の神学(按手礼論文10)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第五章、シャロームの源泉は「神の内なるシャローム」 今回の「二三人の神学」は、「神の内なるシャローム」を土俵にして論ずる神学である。つまり、平和の源泉が「個人」「場所」「人と人との間」でなく「神ご…

二・三人の神学(按手礼論文9)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第四章、シャロームの源泉は「神」か? 平和の泉の源泉が「個人」でもなく、「場所」でもなく、「人と人の間」でないならば、平和の泉の源泉は一体はどこにあるのであろうか。もちろん「神」である。すべての美徳…

二・三人の神学(按手礼論文8)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第3章、シャロームの源泉は「人と人の間」3)か? 日本人は個人が平和の源泉であると考えるよりも木村敏氏が表現した「人と人との間」という言葉を用いて、そこに平和の源泉があると考えるほうが納得しやすいよう…

二・三人の神学(按手礼論文7)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第2章 シャローム(平和)の源泉は「場所」か? それでは、平和の泉の源泉は「場所」(トポス)なのであろうか。平和的な場所・空間があって、そこに帰属することが平和ということなのであろうか。確かに平和的な…

二・三人の神学(按手礼論文6)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第三部 シャローム(平和)の源泉 私たちは生命の水の源泉が主ご自身であることを知っている(エレミヤ2章13節、17章13節、詩篇36篇9節、ヨハネ4章14節)。しかし「シャローム(平和)の源泉」もそうなのであろ…

二・三人の神学(按手礼論文5)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第三章 聖書時代の「ユダヤの平和」? ここまで「ローマの平和」「ギリシャの平和」を消去してきたが、今度は「ユダヤの平和」についても消去しよう。ヘブル人は「シャローム」というヘブル語を用いて、彼らの平…

人格・人格関係・二・三人の神学

HPをいろいろ見ていましても、「人格」とか「人格関係」という用語の使用回数が少ないように思います。使用されている場合でも、どちらかというと心理学な用語として、例えば「人格障害」などで使用されている事例が多いと思います。人格が壊れた状況を目の…

二・三人の神学(按手礼論文4)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第二章 聖書時代の「ギリシャの平和」? もう一つはギリシャ的な平和である。このギリシャ的な平和もまた消去法で消去したい平和である。ギリシャ的な「平和」ἐρηνη(エイレーネ)は主として、「状態」「状況」を…

二・三人の神学(按手礼論文3)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第二部 聖書的な平和とは第一章 聖書時代の「ローマの平和」? まず聖書時代の世俗世界における平和の定義を三つあげて、この三つを一つずつ消去法で消去しつつ、「聖書的平和」を絞り込んでいきたい。ここで参考…

二・三人の神学(按手礼論文2)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)第一部 序論 私が「MB聖会」の担当であったとき、MB教団の兄弟姉妹のご協力を頂き、下記のアンケート集計結果を得た。下記の集計結果から、当教団が「歴史的平和教会」の流れの教団として、「平和」を強調してき…

二・三人の神学 ーシャロームの探求ー はじめに(按手礼論文1)

発行日2001年4月22日(今回、ブログ上で改訂) 本当は「聖書的平和主義の源泉(原動力)は聖霊さまだ」と一言で言うべきところを言葉にしてしまったのが、この「二・三人の神学」である。この「二・三人の神学」は武庫川キリスト教会の標語「キリストにある…

二三人の神学の聖書箇所

マタイ18章19節〜20節「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちのふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所…

日本語の二三人

もしかすると、二三人という言い方は日本語の独特な言い方かもしれません。英語の世界にはない曖昧な表現なのでしょう。日本語の二三人はやはり二三人であり、「数人」と少しは重なり、「幾人」とも少しは重なりますが、「五六人」とは重ならない、そんな感…

二三人から始まる世界

個人と共同体を二つに分けて考えたり、個人と社会を二つに分けて考えたり、また個人と共同体を連続として考えたり、個人と社会を連続として考えたり、いろいろしてきたように思う。個人と社会を二つに分けて考える場合、個を追求する学問として「心理学」が…

三者の危うさ

AがBとCを所有する。 BがAとCを所有する。 CがAとBを所有する。 AとBがCを所有する。 AとCがBを所有する。 BとCがAを所有する。AがBとCを排除する。 BがAとCを排除する。 CがAとBを排除する。 AとBがCを排除する。 AとCがBを排除する。 BとCがAを排除する。A…

1にも多にも人格関係はない。

一にも人格関係はない。 多にも人格関係はない。 一以外はみな多なのか。 二は多として考えない。 三も多として考えない。 それが、二三人の神学。

A≠B B≠C A≠C なんですよね

以前、データーベースソフト「ファイルメーカー」の古いバージョンを愛用していましたが、検索する時、「=」(完全一致)と言う記号をよく使用します。全く同じ用語を検索する時に使うのです。ですから用語を検索する場合は「=」(完全一致)の用語がちゃ…

親子関係が三者関係の基本

夫婦関係は二者関係を象徴した形態でしょう。家族とは三者関係を象徴した形態でしょう。アダムとエバに、子供が生まれて、そのとき始めて、人間だけの三者関係が始まったのです。アダムとエバは二者関係しか知りませんでしたが、子供が生まれて、いつしか三…

友だちを紹介すること

二者関係には「紹介」という行為がありません。二者関係ならば、自己紹介はできますが、他者を紹介するという行為がありません。」「紹介」という行為は三者関係のなかで始めて適切に行うことができるのです。三者関係のなかで、もう一人の人物を紹介する行…

福音聖書神学校の校長を退任

この3月に福音聖書神学校校長を退任しました。それで福音聖書神学校校長時の個人ブログをそのまま、私の関心事である「二三人の神学の部屋」に移行しました。以前の神学校関係の個人プログの記事も残っていますが、この部屋で、私の関心事である「二三人」へ…

三匹の動物の置物

二者関係が健全であるかどうかは三者関係というメジャーで量るしかないと私は考えています。二者関係というものは、片方が片方を支配してしまう可能性があり、両者がお互いを縛ってしまうこともあります。その時、二者関係の健全性をどのように量るか、そこ…

一対多だからね

最近「一対多だからね」と思うことが多くなった。基本的に一が多に対して何ができるのだろうか。多が一に対して何ができるのだろうか。1人が1000人に対して「I love you」「愛してるよ」と言っても大丈夫なのだろうか。反対に、1000人が一人に対して「I love…

安堵と孤立の原理

私は2001年、4月に按手礼を受けました。それで按手礼を受ける前に按手礼論文を書きました。それが、「二・三人の神学」という論文でした。「二・三人の神学」は、「個」だけに拘らず、「全体」だけにに拘らず、通常意識されぬ「二・三人」の関係に拘る神学で…