2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

補完神学の提案32

「≠」の論理は、三位一体という枠組みがあるならば、三位一体を二、「三人の神学」的に読んでいくなかで、三位一体を適用するなかで、多元化、断片化へのブレーキがかかるのではないか。組織神学としての三位一体は多元化、断片化へのブレーキのために必要な…

補完神学の提案31

そのような流れを考えるなかで、私はこのような三位一体論を用いて、歴史的になされたきた、まずは「1」を強調し、「1」の強調の後に、「1」と「1」の間に「=」の論理を引き出すの道でよかったのであろうかと思うようになった。つまり、父=子、父=聖霊、…

補完神学の提案30

三位一体という用語の名付け親ティルトゥリアヌスは西方教会の強力な組織化の影響下で三を強調するよりも、まずは一を強調したようである。一を強調したティルトゥリアヌスが、今の西方教会の組織強調型、体制型の教会を作り上げていったと言っても過言では…

補完神学の提案29

さて、そのように三位一体を舞台にして、神学しようとするとき、位格間の人格関係性における無媒介の関係性を信じる私は、私たちが知る「イエスさまの父なる神に向けての祈り」は、異なる人格間の対話であったがゆえに、対話が可能となるのではないか。もし…

補完神学の提案28

つまり、もう三位一体なるお方から社会を見る必要はない。三位一体なるお方から共同体を見る必要はない。三位一体なるお方から個人を見る必要はない。三位一体なるお方から二、三人のそのままの人格関係だけを見れればそれでよい。三位一体から直接、まずは…

補完神学の提案27

中世のトマス・アクイナス以降、三位一体を存在の類比として「共同体」を持ち出す神学があった。三位一体を存在の類比として「社会」を持ち出す神学もあった。三位一体を存在の類比として「教会」を持ちだす神学もあった。しかし三位一体はまず神ご自身「二…

補完神学の提案26

そのようななかで、これだけは、三位一体に関連して押さえておくべきであると確信した内容が、「二、三人は二、三人」ということであった。であるから、もうこの二、三人を抽象化する必要はない。あとはブーバーでいこうという思いになったのである。もちろ…

補完神学の提案25

私は、「三位一体」を客観的に神学することの限界をずっと感じてきていた。罪意識さえ起こる分野であった。「三位一体」を神学的対象とすることはもってのほかではないかと思いつつも、そのようにしてきたのである。そのようななかで、ブーバーとの出会いに…

補完神学の提案24

私にとって、幸運なことは、マルティン・ブーバーを知った後に、「三位一体」間の関係性に関心が向いたのではなく、最初に「三位一体」の関係性を追求しているなかで、「三位一体」とは無縁のユダヤ教哲学者マルティン・ブーバーの「我と汝」を知ったという…

補完神学の提案23

「これ一本では飽きられるよ」との恩師の声を気にしつつも、もはや私が使用し続けたい座標軸は、「存在」か「関係」かという座標軸でなく、「共同体」か「個人」かという座標軸でもなく、「人格関係」か「非人格関係」かという座標軸にシフトしていくことに…

補完神学の提案22

私はマルティン・ブーバーを読むことで、それからは、今まで頻繁に使用してきた「関係」という用語でなく、「人格関係」という用語に惹きつけられていくことになる。結果的に、私はすべてのことにおいて、「人格関係」(我と汝)と「非人格関係」(我とそれ…

補完神学の提案21

実は、私は「二、三人の神学」という按手礼論文を書いた紀元二千年の時点で、まだ、私に大きな影響を与えてくれたマルティン・ブーバー(ユダヤ人哲学者)を知らなかった。彼のことを知るようになったのは、私の按手礼論文を丁寧に読んでくださった阪神地域…

補完神学の提案20

さて、私が按手礼のために按手礼論文「二、三人の神学」を教団に提出した紀元二千年頃は、確かに、私は「関係」という用語を多用していたように思う。しかしある時から「関係」という用語を控えるようになり、その分「人格関係」と言う言葉を多用するように…

補完神学の提案19

19、さて、それでは「二、三人の神学」のゴールは何であろうか。それは、「個」を追求する枠組みから、人格関係を浮き立たせようとするのではなく、また「共同体」を追求する枠組みから、人格関係を浮き立たせようとするのでもなく、「二、三人」を追求する…

補完神学の提案18

18、またもう一方で「個」というのものが本当に「個」であるのか、という根本問題もある。その点では、スコットランドの哲学者であるマクマレーのギフォード講演でも語られた「関係における人格」という概念は、私に人格に対する新しい視点を与えてくれた。…

補完神学の提案17

17、もう一つ「二、三人の神学」で明らかにしたかった内容は、「二、三人の共同体」と「個」との関係である。「個」が三人集まると、そこに、3通りの二者関係、1通りの三者関係の関係、つまり4通りの関係が生まれる。三人の間の4通りまでならば、我々は我々…

補完神学の提案16

16、しかし、視点をがらりと変えて、体制教会の「共同体」とは違う「共同体」を追求することよりも、「二、三人」と四人以上の共同体の違いを追求していくことにより、結果的に、体制教会の「共同体」とは違う「共同体」を説明できるのではないか。いや私の…

補完神学の提案15

15、私の所属するメノナイト派も「共同体」という用語を多用する教団である。メノナイトが「共同体」という用語を多用する理由は、一般プロテスタント教会が、どちらかというと、「個」と「公同」の二点に集中する傾向にあったことに対するアンティテーゼで…

補完神学の提案14

14、それがゆえに、関係に関してはもっと丁寧な神学が必要ではないだろうか。私にとって丁寧な神学とは、関係対象の人数を増やさない、二、三人間に集中する丁寧な神学ということである。別の言い方をすると、「個」から始める「心理学」的広がりと深まりの…

補完神学の提案13

13、一人と二人の間には、想像を絶する隔たりがあるのは当然である。なぜなら一人は単数であり、二人は複数であるからである。しかし二人間と三人間にもそれに相当する隔たりがある。そればかりか、三人間と四人間には、二人間、三人間とは異なる別の関係の…

補完神学の提案12

12、そのような実情のなかで、キリスト教世界の公同性を尊重する上で、公同教会であるかないかの議論でキリスト教を守ろうとするのも大切なことだが、私は、もうすこし小規模な共同体「三人までの共同体」と「四人以上の共同体」が異なる性質の共同体である…

補完神学の提案11

11、結果的に21世紀、日本においてわかることは、ややこしい教会論は横に置いて、もう信仰の内在化、個人主義一本で行くしかないんじゃないか、と無意識に割り切る信者を増やしてしまったのではないか。そのことが顕著にわかる具体例が、有力なクリスチャン…

補完神学の提案10

10、そんな状況であるから、21世紀、極東の異教国、日本の教会としても、個と共同体のバランス取りが難しいのは当然のことである。結局のところ、現在の我々にとって、最もリアリティーのある教会共同体像は、今自分たちが通う地域教会だけということになっ…

補完神学の提案9

9、またドイツのプロテスタント体制教会が冷却正統主義と言われるような状況に陥ったなかで、そのアンチテーゼとしての個人主義的な敬虔主義が出現した結果、ますます教会共同体が見えにくくなり、自由主義・福音主義に関係なく、個人主義的信仰だけの独走状…

補完神学の提案8

8、カトリック教会は、初代教会的から国家教会に土俵を移し、千年級の歴史パワーで「公同」を主張し、東方教会もカトリック教会と同様に国家教会の土俵に立ち、千年級の歴史パワーで「正統」を主張し、プロテスタント教会もカトリック教会とは違う意味で、「…

補完神学の提案7

7、新約聖書が語る「教会はキリストのからだである」(エペソ1:23、4:12、5:30)という、普遍的教会、これはよくわかる。また「ピリピという場所に教会があるからピリピ教会だ」という地名の教会の意味もわかる。また「ピリピ教会はピリピに散在する家の教会…

補完神学の提案6

6、キリスト教信仰は、「個」と「共同体」の二つの枠組みで整理することができよう。ここで言う「個」とは「実存的信仰」のことであり、「共同体」とは「教会的信仰」のことである。しかし「実存的信仰」と「教会的信仰」の二つは、二千年の教会史のなかでか…

補完神学の提案5

5、それで私は西暦二千年にMB教団より按手礼を頂くにあたり「二、三人の神学」なる按手礼論文を書いた。この論文は、今述べたごとく、「実存」の枠組みと「共同体」の枠組みだけでなく、もう一つ「二、三人」という限定的な枠組みで神学させてください、とい…

補完神学の提案4

4、しかしそのようななかで、私は西暦二千年頃から「絶対に向かおうとする神学」の大枠として、「実存」と「共同体」の二つの枠組みだけでなく、「実存」とも「共同体」とも異なる「二、三人」という、もう一つの枠組みで考え、「二、三人」を特別視するよう…

補完神学の提案3

3、であるから、「実存主義」ということで括られる諸神学の場合は、神の被造物としての「個」こそが「神=絶対」に最も近い位置にあるものとして神学したのであるが、「共同体主義」ということで括られる諸神学の場合は、神の被造物としての「共同体」こそが…