二・三人の神学(按手礼論文15)

 それでは、人と人との二者関係は不完全であることがわかるが、神と人との二者関係は完全であり得るのか。人になられたイエスさまと弟子ペテロとの二者関係に注目してみよう。

 ペテロとイエスさまとの関係は不完全ではあっても、「我と汝」の人格関係は成立していた。しかしイエスさまが受難に向かわれるなかで、ペテロのほうでは、非人格的・一方通行的な行動が目立つようになっていった。

 というのは、ペテロはイエスさまに対して強い願望を抱いていたからである。この願望はすでに支配(コントロール)と言えるものであった。それで、人になられたイエスさまはペテロのこのような願望が程度を超えた段階で「サタンよ。下がれ」と戒められたのである。なぜならこのペテロがイエスさまが向かわれる十字架の道を力づくで塞ごうとしたからである。彼にとってのイエスさまはいつまでも自己願望の達成者であってほしかったのである。この時点ではまだそこに至っていないが、彼の愚かさの最たるところは、主の御心が人類の救いのために十字架で死ぬことであったにもかかわらず、ペテロがまるで自分も人類のために死ぬことができるかのように、主のために死ぬと豪語したことにある。そのようななかで、イエスさまはペテロに「あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと言う」と預言されることによって、ペテロの「願いのコントロール」を解こうとされた。そしてその通り、彼の描いた自分勝手なイエスさま像との二者関係は挫折していったのである。



 しかし、我々は様々な限界を体験しつつも、「完全平和なお方との二者関係」は、クリスチャンの生命であることを忘れない。なぜなら「完全平和なお方との二者関係」とは、「祈り」のことであり、「神との対話」「神とのコミュニケーション」のことだからである。我々は、三位一体間における完全平和なる二者関係のなかに、我々が体験不可能な完全平和の二者関係の奥義が保有されていることを信じつつ、祈り続けるのである。