補完神学の提案18

18、またもう一方で「個」というのものが本当に「個」であるのか、という根本問題もある。その点では、スコットランドの哲学者であるマクマレーのギフォード講演でも語られた「関係における人格」という概念は、私に人格に対する新しい視点を与えてくれた。霊性神学分野の開拓者であるフーストンは「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知るものがなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(マタイ11:27)を引用し、マクマレーの「孤立し、純粋に個別である自己などありえない」という宣言は一致していると述べている。 「神を信じないものこそが個を主張できる」というふうなデカルトのコギト的な「個」があるが、果たしてそのような「個」をどう考えるかである。我々は神との関係性のない独立した「個」など考えたくもない。いや神との垂直関係だけではなく、人間同士の水平関係であっても、関係性のない独立した「個」など考えたくもない。ただコギト的な「個」を信じ抜く立場への理解は対話と宣教に生きる我々として必要であろう。なぜなら、そちらのほうが今だに現代人にわかりやすい論理だからである。なぜなら、現代人は、まずは「個」の存在を規定し、次に個と個との関係性に移って論を進めたほうが、常識的であり、一般的であり、わかりやすい。こちらのほうが一般的に誰も疑わない論理だろうと思われる。一般クリスチャンであっても、そのような論理の影響を受けて生きているように思われるが、そのようなクリスチャンたちに対しては、果たして、この手法だけを「アーメン」と受け入れて良いのだろうかと問い続けるべきであろう。ただ私は、マクマレーから教えられているものであるが、彼のように社会に至るまで枠組を広げることはできないし、するつもりもない。それが「二、三人」に限定した「二、三人の神学」ということなのである。