2019-05-02から1日間の記事一覧

補完神学の提案18

18、またもう一方で「個」というのものが本当に「個」であるのか、という根本問題もある。その点では、スコットランドの哲学者であるマクマレーのギフォード講演でも語られた「関係における人格」という概念は、私に人格に対する新しい視点を与えてくれた。…

補完神学の提案17

17、もう一つ「二、三人の神学」で明らかにしたかった内容は、「二、三人の共同体」と「個」との関係である。「個」が三人集まると、そこに、3通りの二者関係、1通りの三者関係の関係、つまり4通りの関係が生まれる。三人の間の4通りまでならば、我々は我々…

補完神学の提案16

16、しかし、視点をがらりと変えて、体制教会の「共同体」とは違う「共同体」を追求することよりも、「二、三人」と四人以上の共同体の違いを追求していくことにより、結果的に、体制教会の「共同体」とは違う「共同体」を説明できるのではないか。いや私の…

補完神学の提案15

15、私の所属するメノナイト派も「共同体」という用語を多用する教団である。メノナイトが「共同体」という用語を多用する理由は、一般プロテスタント教会が、どちらかというと、「個」と「公同」の二点に集中する傾向にあったことに対するアンティテーゼで…

補完神学の提案14

14、それがゆえに、関係に関してはもっと丁寧な神学が必要ではないだろうか。私にとって丁寧な神学とは、関係対象の人数を増やさない、二、三人間に集中する丁寧な神学ということである。別の言い方をすると、「個」から始める「心理学」的広がりと深まりの…

補完神学の提案13

13、一人と二人の間には、想像を絶する隔たりがあるのは当然である。なぜなら一人は単数であり、二人は複数であるからである。しかし二人間と三人間にもそれに相当する隔たりがある。そればかりか、三人間と四人間には、二人間、三人間とは異なる別の関係の…

補完神学の提案12

12、そのような実情のなかで、キリスト教世界の公同性を尊重する上で、公同教会であるかないかの議論でキリスト教を守ろうとするのも大切なことだが、私は、もうすこし小規模な共同体「三人までの共同体」と「四人以上の共同体」が異なる性質の共同体である…

補完神学の提案11

11、結果的に21世紀、日本においてわかることは、ややこしい教会論は横に置いて、もう信仰の内在化、個人主義一本で行くしかないんじゃないか、と無意識に割り切る信者を増やしてしまったのではないか。そのことが顕著にわかる具体例が、有力なクリスチャン…

補完神学の提案10

10、そんな状況であるから、21世紀、極東の異教国、日本の教会としても、個と共同体のバランス取りが難しいのは当然のことである。結局のところ、現在の我々にとって、最もリアリティーのある教会共同体像は、今自分たちが通う地域教会だけということになっ…

補完神学の提案9

9、またドイツのプロテスタント体制教会が冷却正統主義と言われるような状況に陥ったなかで、そのアンチテーゼとしての個人主義的な敬虔主義が出現した結果、ますます教会共同体が見えにくくなり、自由主義・福音主義に関係なく、個人主義的信仰だけの独走状…

補完神学の提案8

8、カトリック教会は、初代教会的から国家教会に土俵を移し、千年級の歴史パワーで「公同」を主張し、東方教会もカトリック教会と同様に国家教会の土俵に立ち、千年級の歴史パワーで「正統」を主張し、プロテスタント教会もカトリック教会とは違う意味で、「…

補完神学の提案7

7、新約聖書が語る「教会はキリストのからだである」(エペソ1:23、4:12、5:30)という、普遍的教会、これはよくわかる。また「ピリピという場所に教会があるからピリピ教会だ」という地名の教会の意味もわかる。また「ピリピ教会はピリピに散在する家の教会…

補完神学の提案6

6、キリスト教信仰は、「個」と「共同体」の二つの枠組みで整理することができよう。ここで言う「個」とは「実存的信仰」のことであり、「共同体」とは「教会的信仰」のことである。しかし「実存的信仰」と「教会的信仰」の二つは、二千年の教会史のなかでか…

補完神学の提案5

5、それで私は西暦二千年にMB教団より按手礼を頂くにあたり「二、三人の神学」なる按手礼論文を書いた。この論文は、今述べたごとく、「実存」の枠組みと「共同体」の枠組みだけでなく、もう一つ「二、三人」という限定的な枠組みで神学させてください、とい…

補完神学の提案4

4、しかしそのようななかで、私は西暦二千年頃から「絶対に向かおうとする神学」の大枠として、「実存」と「共同体」の二つの枠組みだけでなく、「実存」とも「共同体」とも異なる「二、三人」という、もう一つの枠組みで考え、「二、三人」を特別視するよう…

補完神学の提案3

3、であるから、「実存主義」ということで括られる諸神学の場合は、神の被造物としての「個」こそが「神=絶対」に最も近い位置にあるものとして神学したのであるが、「共同体主義」ということで括られる諸神学の場合は、神の被造物としての「共同体」こそが…

補完神学の提案2

2、さて、西洋における近代主義以降の「実存主義」的な諸神学は、「個」というものを糸口にし「絶対に向き合おうとする神学」であり、また「共同体主義」的な諸神学も「共同体」というものを糸口にして「絶対に向き合おうとする神学」であった。

補完神学の提案1

1、神学は「神=絶対」から始まる。であるから、我々は、「神=絶対」の外にあるがゆえに相対の位置にあるものとして、相対という限界を受け入れつつ、そのなかで「絶対に向き合おうとする学」として神学を追求せざるを得ない。