補完神学の提案29

さて、そのように三位一体を舞台にして、神学しようとするとき、位格間の人格関係性における無媒介の関係性を信じる私は、私たちが知る「イエスさまの父なる神に向けての祈り」は、異なる人格間の対話であったがゆえに、対話が可能となるのではないか。もし異ならないならば、二者間でも三者間でも、神秘主義、一体主義のなかに埋没してしまうのではないか。こう思うようになったのもブーバーの対話主義を知ったがゆえである。もし神秘主義、一体主義に埋没してしまうならば、対話が見えなくなるのではないか。一体主義に埋没した時、東洋宗教的な非理性に接近してしまうのではないか。であるからこそ、三位一体を舞台にして考えるならば、もっと位格が異なることが強調されるべきではないか。我々は、異なるものが対話する、という奇跡を素直に信じても良いのではないか。私たちは、「君と同じだね」と友情が芽生えるのであるが、多くは異なるものなのである。