補完神学の提案32

「≠」の論理は、三位一体という枠組みがあるならば、三位一体を二、「三人の神学」的に読んでいくなかで、三位一体を適用するなかで、多元化、断片化へのブレーキがかかるのではないか。組織神学としての三位一体は多元化、断片化へのブレーキのために必要なのではないか。異端にならないために、「≠」の論理が必要なのではないか。ただ「≠」の論理が必要であるということは、前提としての人格関係を信じる信仰がある、ということである。我々は人格関係を信じ抜く存在であるということである。これは、ただ一点、我々が「祈り」をすることができるということでしか証明されない。神と人が「≠」にもかかわらず、現に祈りをしている、ということである。この祈りを神秘主義の領域で語るのではなく、対話主義の領域で語るのである。

 

 「神が人格であるなら、神はわたしに呼びかけることができ、またわたしからも神に呼びかけることができるはずである。非人格的な究極的実在は、この「我と汝」の関係(マルティン・ブーバーの言葉)を超えたところにある。それは、経験的な自己の  跡をすべて捨て去らねば到達できない存在であって、この点こそまさに、この観点に立つすべての宗教の指導者たち(とりわけ優れた神秘主義者の多く)が唱え続けてきたことである。この観点からすると、先にわたしが挙げた原初的な宗教行動、すなわち祈りというものは否定される。もし究極的実在が非人格的であるなら、わたしは瞑想や精神の肉体の修行を通してそこに到達しようとすることはできるが、それに向かって祈るということは意味をなさない。」(「現代人はキリスト教を信じられるか」(ピーターバーガー)p52)