補完神学の提案52

「神との人格関係主義」について述べる時、「神秘主義」と「対話主義」の境界線を検討せねばならない。明確な境界線を二つの間に引くのは困難であろう。いや引いてはならないだろう。パウロの場合は、この「対話」する関係こそが、「エンクリスト」なんだと客観的に神学できるようになったのは後のことであろうと思われる。「これがエンクリストなんだ」と確信に至ったのはどの時点だったのだろう。彼は、我々に「エンクリスト」という神秘現象を求めよと言ってはいない。対話的関係に入れられた現実を、信仰によってそのように表現しているのであろう。ただ注意せねばならないのは、関係表現というものは言語化した途端に安価なものに成り下がるのである。むしろ、お互いのなかだけで主観的で語り続けるほうが正しい。三位一体の関係性を我々が研究対象とするとき、「存在論」的解釈しようが、「関係論」的に解釈しようが、どうしても、客観的対象に過ぎない三位一体になってしまうのである。そして、三位一体の神に、主観的に関わろうとするならば、再び「神秘主義」と「対話主義」の狭間で迷わねばならないのである。