補完神学の提案43

 ここから、「二、三人の神学」の実際的な面を触れていこう。「二、三人の神学」から引き出される、フォーカスせねばならない点がある。この内容は、2000年の按手礼論文に記した内容である。その内容は次のようなことである。三者間は媒介不能な領域がある。AとBの二者関係、BとCの二者関係、CとAの二者関係はそれぞれ媒介不能な領域を持つ。つまりAはBとCの二者関係を知らない。BはCとAの二者関係を知らない。CはAとBの二者関係を知らない。三者関係というのは、この自分の知らない二者関係をどう見るかに関心を持つ。自分の知らない二者関係に対して信頼することは深い安堵に至る最良の三者関係となる。しかし自分の知らない二者関係に対して不信を頂くことは深い孤立に至る最悪の三者関係となる。この三者関係が信頼によって保たれていくなかで、強いネットワークが生まれるのである。私は教会の三人スタッフ体制でこのことを味わってきた。三者とは面白い関係である。AがBに対して、誰がこんなことをしたの?と聞いたら、三人しかいないならば、Cという前提で語ったことになる。このあたりが三者関係の面白さである。二者関係のコントロールに対する問題点に気づかせてもらえるのが、三者関係であるということである。そして、イエスさまがマタイ18章で語られた「二、三人」の祈りがどれほど重要であるかを教えられたことも加えておこう。つまり、個の祈りで世界は変わる、とか、みんなが一致すれば世界は変わる、とか急進的な考えが登場した時、もう一つ二、三人が祈れば世界は変わる、という視点を主は弟子たちに伝えてくださった。

補完神学の提案42

その点で、私はメノナイトの学者、フラー神学校教授のディビッド・アウグスバーガーから多くの知恵を得た。しかし彼の伝えてくださった知恵は二者関係に限定された知恵であった。二者関係間の知恵を追求することはご当然のことであり、それ以外の関係性は考えられないことだとは思うが、今私が二、三人の神学を思索するにあたって、二者関係に限定した知恵だと思うようになっている。つまり、二者関係には、二者関係としての知恵が必要であり、三者関係には、三者関係の知恵が必要であるということである。二者関係には二者関係の限界があるが、三者関係には三者関係の限界がある。二者関係というものは、どうしてもお互いのコントロール下に置かれてしまうということが、現代の依存症研究で明らかにされている。がゆえにポストモダンの影響下とされる現代人は一般的に二者関係の距離を置き方の知恵を得たように思う。そのようななか、ディビッド・アウスバーガーが来日した折、二者関係で名著を残された氏が、私にそれとは異なる世界として、「実は私も「12ステップ」に興味を持っているのだ」と私に明かしてくれ、この有名な先生と深いところで共感することができたことはうれしいことであった。つまり彼も二者関係ではなく、自助グループ間の関係性に興味を持つようになっておられた。

補完神学の提案41

そのようななかで、私は、1990年代、人格関係というものが理解されやすい状況が生じていた。それが依存症研究であり、そこから生じた「人格関係障害」である。「人格関係障害」とは人格障害とは違う。誰にも起こり得る、関係的障害である。人格障害ならば、医学の分野と重なり合うところ大であるが、人格関係障害は、今なお神学部門から説得できる可能性が大きい新しい領域である。

補完神学の提案40

私は二、三人の人格関係を包括する公同というものがあることを信じる。信じざるを得ない。なぜなら二、三人の人格関係でないものをすべて非人格だという理由で排除すべきではない。むしろ非人格関係という領域があるからこそ、人格関係が浮き彫りにされると肯定的に受け止める。天使の軍勢が人数が多いがゆえに非人格的なものであると位置付けることはできるが、そこにある賛美に羊飼いたちは圧倒されたのは事実であった。二、三人の人格関係はすばらしいが、四人以上で構成される4声のハーモニーのほうの美を否定するわけにはいかない。会衆の限界を認めるが、「会衆の中での個人」「会衆の中での二、三人」という視点は聖書のなかに存在する。であるから、たとえ近代主義が非人格的であったとしても、その非人格的関係を認めるなかで、人格関係を探し出すことができる。

補完神学の提案39

ここに私の「二、三人の神学」の特徴がある。「二、三人の神学」は「マイノリティーの神学」である。しかし「マイノリティーの神学」はマジョリティーを視野においた神学でもある。「二、三人の神学」は絶えず公同を視野に置く。カルヴァン派のアンチテーゼの神学ではあるが、同時にカルヴァン派を視野に置かざるを得ない神学でもある。つまり「二、三人の神学」では、「二、三人の神学」として手におえない「国家」というものがあることを認めざるを得ない神学でもある。であるから、「二、三人の神学」は、過去の「キリスト教世界」(クリステンダム)を認めざるを得ない神学であり、「キリスト教世界」のあらゆる権威主義的な物語を認めざるを得ない神学でもある。認めることは認めるが、我々はその生き方をしたくない、という選択をする我々だということである。アナバプティズムは体制というものが存在して初めて生きることができる立場でもある。私たちは政治の暴力性の存在を残念ながら認めざるを得ない。しかし私たちはその生き方を選ばない、というのがアナバプティズム的な生き方である。その点でスタンリーハワワースの「暴力の世界で柔和に生きる」に共感するものである。

補完神学の提案38

もう一方で「二、三人の共同体」から広がるネットワークとしての固有の共同体でどこまでネットワーク化できるかはわからないが、もう一方で確かに、「二、三人の共同体」ではなく大きな共同体の侵入を受けている。教会に100人が集まる時の礼拝形式は、「二、三人の共同体」のネットワーク化としての100人など無理な話である。そこには「二、三人の共同体」には追いつかない、大きな共同体があり、また教派があり、本部があり、わからないが、公同の元の元がある、お上があると信じているのである。いわゆる「公同教会」なるものがあると信じているのである。

補完神学の提案37

しかし3人と4人の隙間を克服することにより、道は開かれていくと信じる。「固有の文化を持つ共同体」という概念は、オランダの卓越した改革派神学者、フォン・リューラーが述べているが、彼のアナバプティズムに対する否定的発言がアナバプティズムの私としてはうれしい発言となった。つまり彼は、アナバプティズムとは「固有の文化を持つ共同体」のことだと述べ、今のキリスト教はこのアナブパティズムの害悪下にあり、「固有の文化を持つ共同体」に成り果ててしまった、と嘆いているからである。つまり、今の教会はアナバプティズム側になびいているということだからである。