補完神学の提案25

私は、「三位一体」を客観的に神学することの限界をずっと感じてきていた。罪意識さえ起こる分野であった。「三位一体」を神学的対象とすることはもってのほかではないかと思いつつも、そのようにしてきたのである。そのようななかで、ブーバーとの出会いにより、ようやくそこから解放された感がある。つまり主体と主体の出会いという発想を頂くことによって初めて、「三位一体」の内容をすべて解明するよりも、少しずつでも人格関係的に体験していくことを願えばよいのだという安堵感が広がったのである。カルヴァン主義から批評されるであろう主体と主体の出会いの危うさ、であるが、その危うさを認めた上で、「三位一体」論へのハヤトロギア的深まりにより、必ず人間側の主体の暴走に対してブレーキをかけることができると確信するものである。もちろん、ヘブルのハヤトロギアには三位一体は存在しない。